第254回:「就業規則」はなぜ必要なのか?

シンガポール人材開発省と三者間紛争解決機構(TADM)は7月、「シンガポール雇用基準報告書2025」を発表しました。同報告書によると、不当解雇や給与未払いなど雇用に関連する申し立て件数が従業員1,000人あたり3.44件となり、2024年の3.12件から増加しました。増加の背景としては、企業の組織再編、事業停止による人員削減に加え、最近目立つ飲食業の撤退など、事業閉鎖などが主な原因としています。

弊社では、社員の給与支払いや勤怠管理といった人事代行サービスを提供しています。給与支払いや勤怠は、既に確立されているAIを使ったシステムも普及しており、機械的に処理は可能です。ただ、社員同士のトラブルや解雇、突然の依願退職についてはシステムでは解決することはできません。人間には感情や欲があり、特に「お金」に関することにはデリケートです。

こうしたさまざまな問題の発生に対し、申し立てが行われる前に「トラブルの芽」を摘み取るべく当事者と責任者との間でミーティングを重ねることが重要です。それでも申し立てが発生する場合があり、弊社はその解決をサポートしてきました。その中から過去の事例を紹介します。

ケース1:不当解雇によりTADMに訴訟されたケース
弊社の顧客X社で勤務していた社員のパフォーマンスが悪く、契約書に基づき「1カ月前通知(One Month Notice)」で解雇通告を行いました。ところが通告した後に、本人が通告前の時点で妊娠していたことが判明しました。本人は妊娠を理由とする不当解雇としてTADMに訴えました。

TADMは、本人に警告文を出したり、パフォーマンス向上を後押ししたりするなど解雇を最終手段として選ぶ行為をしたのかどうかや、妊娠を知った上での解雇通告だったのかどうかについても、重要なポイントとなりました。経営者側は、解雇通告を出した後に当該社員が妊娠を申告してきたので不当解雇には当たらないと主張しました。次のステップとして、雇用請求裁判所(ECT)に持ち込むことも考えました。ただ医師の妊娠証明が解雇通告の前に存在していたことから訴訟を断念し、TADMが提示した調停案により金銭的な解決に至りました。

ケース2:AWS(Annual Wage Supplement、年間賃金補助)未払いのトラブルが裁判に発展したケース
ある企業では、人事担当者の前任者は就業規則を理解していなかったため、12月31日以前に退職した従業員に対してAWSが支給していました。その後、着任した後任の担当者は、「12月31日時点で在籍していない社員にはAWSを支給しない」という就業規則に従い、9月に退職した社員にAWSを支給しませんでした。前例と現行の雇用契約書に関する内容が争点となり、最終的には訴訟に発展しました。

このケースでは、AWSが支給されなかった元社員が会社を訴えました。TADMを通り越していきなりシンガポール地方裁判所での訴訟に発展し、最終的には就業規則に基づき、会社側の主張が認められました。

このように、社員は「不当」と思ったことに泣き寝入りするのではなく、申し立てや訴訟を起こすことが一般的になりつつあります。訴訟に発展させないためには、就業規則をしっかり整備しておくことが重要です。

そもそも就業規則は会社の「憲法」といえるものです。憲法で言う国民に当たる社員のための「法」となります。「法」を順守するのは労使双方であり、双方が安心して会社の中で運用することで働きやすさやパフォーマンスが上がることが十分予測できます。

特にシンガポールでは雇用に関する規定が目まぐるしく変化しています。こうした動きに対応しながら常にアップデートしていくことが肝要です。

弊社斉藤連載中Daily NNA 2026年8月20日号「シンガポール人「財」羅針盤」より抜粋

コラム執筆者

斉藤 秀樹
斉藤 秀樹プログレスアジア 代表取締役
1966年東京生まれ。大学卒業後、小売・流通チェーン「ヤオハン」に就職。1993年より香港本社へ転勤後一貫して人事に携わる。同社清算後も大手人材紹介会社「パソナ」のタイ現地法人社長を務めるなど複数社で人事・経営に携わる。
2006年、タイ国立マヒドン大学経営大学院にて経営学修士取得後、シンガポールにグッドジョブクリエーションズを設立、2014年に同社売却。
2014年6月、シンガポールに、プロの人事集団「プログレスアジア・シンガポール」を設立。真に東南アジアでビジネスを展開する中小企業をサポートすることを使命に再び起業の道を歩む。