第198回:小売業の基準賃金アップについて

8月9日(火)はシンガポールの57回目の建国記念日で祝日でした。シンガポールの祝日は日本に比べて少なく、今年は旧正月の2連休を入れても11日間となっています。建国記念日の前日の月曜日に有給休暇を取得し、週末から4連休とした人も多かったようです。

9日には建国記念日を祝う大型イベント「ナショナルデーパレード」も、観客を入れて3年ぶりに開催されました。その「うたげ」が終わった1週間後、シンガポール政府から突然、小売業の基準賃金の引き上げモデルが提示されました。

「突然」というのは、発表から実施までの期間が短いという意味です。小売業の政労使から成る作業部会「Tripartite Cluster for Retail Industry(小売業界の3者クラスター)」は、今回の発表から半月後の9月1日から基準賃金の引き上げを開始することを提言しました。

衝撃的なのは毎年の賃金上昇率が8.4%~8.5%となることです。ただ強制力はなく、あくまでも「推奨」とのことで、すぐに小売業界の人件費増につながることにはなりません。

では、なぜこうした賃上げモデルが発表されたのかを考えると、もちろん小売業で働く人の待遇改善を図ることが目的かとは思います。ただ今回の賃上げ対象者は国民と永住権(PR)保持者の4万6,000人で、外国人は含まれていません。

小売業で働く人の中で活躍している従業員をみると、外国人が多いのが現状です。特に隣国マレーシアから来てWP(ワークパーミット)を取得して勤務する従業員が多くみられます。

WPを取得していることで転職が容易でないため、離職を防ぐ効果があります。裏を返せば、シンガポール人の離職率が高いことが指摘できます。

弊社の人事代行サービスを利用されている小売業者の人材採用では、入社から1週間程度で採用者が辞めてしまうケースも多発しています。

本人に理由を聞いてみると「思ったより仕事がきつかった」「入社しても既存社員が忙しくて誰も仕事を教えてくれない」「外部者として冷たい扱いを受けた」といった意見が聞かれましたが、ある意味で「打たれ弱い」ことも否定できません。

今回の小売業3者クラスターの提言には、雇用主には従業員に対し「小売業の職務に対する最低限のトレーニングを施す」「明確なキャリアアップの道筋をつける」ことが求められると明記されました。

これも入社後に適切なトレーニングが実施されていない現状を把握しつつ、小売業界に警鐘を鳴らしているようにも感じます。全体的な賃金底上げと有効なトレーニングが行われば、小売業で仕事をしたいという人も増えるでしょう。

入社後1週間で辞めてしまう人も減り、人材の定着率アップ、ひいては小売業の「人手不足」解消につながるかもしれません。

ただ、現地で小売業を営む経営者の立場からみると、推奨通り賃金を上げた企業とそうでない企業の間に「格差」が生まれ、賃上げした「勝ち組」の企業に人が流れることになります。

また人件費上昇や売り場の賃料高騰を受け、シンガポールからの撤退という選択を余儀なくされるとの意見も出ています。政府が想定する楽観的なシナリオよりも深刻な事態に陥ることも予測されます。

小売業者は「負け組」にならないよう今から対策を練る必要があります。

弊社斉藤連載中Daily NNA 2022年8月18日号「シンガポール人「財」羅針盤」

コラム執筆者

斉藤 秀樹
斉藤 秀樹プログレスアジア 代表取締役
1966年東京生まれ。大学卒業後、小売・流通チェーン「ヤオハン」に就職。1993年より香港本社へ転勤後一貫して人事に携わる。同社清算後も大手人材紹介会社「パソナ」のタイ現地法人社長を務めるなど複数社で人事・経営に携わる。
2006年、タイ国立マヒドン大学経営大学院にて経営学修士取得後、シンガポールにグッドジョブクリエーションズを設立、2014年に同社売却。
2014年6月、シンガポールに、プロの人事集団「プログレスアジア・シンガポール」を設立。真に東南アジアでビジネスを展開する中小企業をサポートすることを使命に再び起業の道を歩む。