第243回:雇用契約書の重要性

オーストラリアのシンクタンクである経済平和研究所(IEP)が発表した2025年版「世界平和度指数(GPI)」でシンガポールは世界第6位にランクインし、アジアで最も平和な国と評価されました。女性が夜でも安心して外出できる国・地域は世界的に見てもそれほど多くはなく、その点でシンガポールの安全性が際立っています。ちなみに日本は12位でした。

海外での留学や就職を検討する日本人にとって、移民の増加による一部欧州の治安悪化や、留学生受け入れに厳しくなった米国は、渡航先として二の足を踏んでしまう場合もあります。その一方、治安が良く安心して住めるシンガポールで働きたいという人は少なくありません。日本との時差が少ないことに加え、公用語の一つが英語である点や、同じアジア圏ということも魅力です。就労ビザ取得が厳しい状況にありますが、就労希望者は多く、特に女性が目立ちます。

シンガポールで雇用関係を結ぶ際、雇用主と労働者の間で「雇用契約書」が取り交わされます。しかし実際には、契約書ではなく「口約束」をするケースがみられます。特に日系企業では、就「職」でなく就「社」の傾向が強く、ジョブディスクリプション(JD、仕事の職務分掌)があいまいなケースが散見されます。

ある欧米系企業のJDを見たことがありますが、2ページほどありました。与えられた職務がきめ細かく記載されており、職務を遂行できない場合は解雇されますし、逆に「それ以外」の職務を押し付けられる場合は「契約違反」となります。そもそも雇用主は職務以上の仕事を求めず、被雇用者も職務以外のことは基本的にやりません。

最近の事例では、ある飲食店で人手不足になり、店舗で求められるスキルと異なる能力を持つパート社員を、外部から五月雨式に採用しました。口約束で取り決められた時給と実際に支払われた時給との間に、複数のケースで差額が発生したため、翌月に追加支給をすることになりました。

差額が発生した原因には、きちんとした雇用契約を結ばずに「口約束」で勤務させたことがあります。また「経験軸・スキル」や「経験」によって時給を分けていたものの、標準的なルールが存在せず、支払いに不整合が生じたことも一因です。

このほかある日系企業では、面接時に「口約束」したポジションと実際の仕事内容が異なるケースがありました。採用が決まったものの入社前に聞いていた内容と実際に任される職務内容が異なる結果、社員自身は疑念を抱き、評価者からも低い評価を受けるなど、結局は不本意ながら試用期間内での退職を余儀なくされました。

このような事態を防ぐため、たとえ短期間のパートタイムでも、雇用契約書の作成は必須です。欧米系企業ほど厳しくする必要はないものの、JDについてはポジションごとに明確に定め、労使双方が合意し安心して働ける環境が重要です。

終身雇用が長く続いている日系企業では、労働者は「会社」と契約する傾向が強い一方、シンガポールではどちらかと言うと「職」との契約であるため、「仕事は何でもやって下さい」では通用しません。そのため、少なくともJDに関しては詳しく記載する必要があります。

弊社斉藤連載中Daily NNA 2025年9月18日号「シンガポール人「財」羅針盤」より抜粋

コラム執筆者

斉藤 秀樹
斉藤 秀樹プログレスアジア 代表取締役
1966年東京生まれ。大学卒業後、小売・流通チェーン「ヤオハン」に就職。1993年より香港本社へ転勤後一貫して人事に携わる。同社清算後も大手人材紹介会社「パソナ」のタイ現地法人社長を務めるなど複数社で人事・経営に携わる。
2006年、タイ国立マヒドン大学経営大学院にて経営学修士取得後、シンガポールにグッドジョブクリエーションズを設立、2014年に同社売却。
2014年6月、シンガポールに、プロの人事集団「プログレスアジア・シンガポール」を設立。真に東南アジアでビジネスを展開する中小企業をサポートすることを使命に再び起業の道を歩む。